はじめまして、WACCA MUSIC SCHOOLの万里紗です。
ミュージカルや、演劇への出演を目指す方に向けた演技のレッスンを主に担当して参ります。
今日はWACCA講師ブログデビューということで、
演じるということについて私が日頃考えていることを概観的にお伝えしたいと思います。
作品を観た後「あの人はお芝居が上手いね」「演技が素晴らしかった」といった感想を言う時、私達は何に着目し、何を基準に評価しているのでしょうか?
歌やダンスであれば、高音の響きが美しい、リズム感が良い、足が良く上がる…など、客観的な基準での判断が可能です。
勿論、技術が無くとも表現力や、アーティストのありようだけで魅了される、ということもありますが、それでも一曲のパフォーマンスを「素晴らしい」と感じるとき、そこには必ず一拍ごと、一秒ごとの技術の積み上げがあります。
一方で、俳優が演じるときに行うのは「人間の行動」です。
「椅子から立ち上がる」とか「言葉を発する」とか「相手役の手を握る」とかいった表面的なことは、多数派の観客が(ハイツェーを出せるかどうかとは違って)意識せずともこなせることであり、それが【素晴らしい演技】という感想に直結するかというと、そうではありません。
「真実」と「自然」は違う
では、私達は何を持って、「良い演技」を判断しているのか。
それはきっと、【真実を感じられるかどうか】なのです。
しかも少しややこしいので気を付けたいのは、【真実を感じられる(真実が宿っている)】ということと、【自然に見える】ということは、違う、という点。
私達は、Aという俳優の実人生を知りません。
俳優もまた、Bという観客の実人生を知りません。
私達の肉体も精神も、一人一人全く異なっていて、それと同様、戯曲に登場する人物も、演じ手の私達から見れば赤の他人です。
自分とは異なる人間を演じるとき、その人にとっての「自然が何か」は、実はどこにも答えがないのです。
だって例えば、古代エジプト人の「自然な食事の仕方」「自然な喋り方」なんて、誰にも分からないですよね。
「嘘の物語」に「真実」を宿すために
しかしながら、「真実」を追い求めることはできます。
なぜなら役を演じるとき、戯曲には自分が担う役の「ある目的に向かってとる行動」と「別の目的に向かって行動をとる別の人物」が記されており、それぞれの俳優がそのデザインに則って、舞台上に共存するからです。
だから、俳優である私達がするのはその共存している別の登場人物に対して「真実」働きかけていく(行動をしかける)ということだけなのです。
そして、その行動が「真実」であったかどうかは、観客のみならず、俳優自身が一番良く分かる、判断できることです。
さっきやったシーンで、自分はあの登場人物を「真実」引き留めただろうか。
さっきやったシーンで、自分はあの登場人物に「真実」愛を伝えただろうか。
私は、この点-あらゆる瞬間において、真実であろうとする-が、演じる上で一番の難しいところだなぁ、と感じています。
なぜなら、とっても矛盾するようなことを言いますが、
お芝居は「嘘」だからです。
知性や理性では受入れがたいほどの「嘘」が描かれているこそ、劇的で、歴史に残るような偉大な作品であるということもあります。
「嘘」の物語を、観客も、そして自分自身も、「真実」として認識し、身体に落とし込む。
そのためにこそ、俳優は沢山の時間を、戯曲の理解と想像力の営みに注ぐのだと思います。
そしてまた、日常生活を自分として生きているときも、可能な限り「自分にとっての真実」を見つめながら生きようとすることが、演じ手としての魅力を増すための、一番の栄養だと私は信じています。