こんにちは。
WACCA MUSIC SCHOOLの万里紗です。
主に演技のマンツーマンレッスンを担当しています。
先日、レッスンで生徒さんより
「稽古をするたびに、その日の調子のせいなのか、湧いてくる感情が変わって、ブレちゃうというか、自分の演技が合っているんだろうかと迷い始めちゃうんです。」
というご相談を受けました。
間髪入れずに私がした回答は
「湧いてくる感情がどんなものかはどうでもいいです!」。
生徒さんはキョトンとしていましたが(笑)、きっと同じような悩み・迷いを抱えている方は多いかと存じます。
というわけで、今日はどうしたら「ブレない」演技ができるのか、ちょっと考えてみたいと思います。
演技とは、感情を演じるものではない
いきなり極論というか、結論めいたことを言いました。
でも、そうなんです。
多くの方が誤解されていることですが、演技とは、(少なくとも近現代演劇で主流となっているリアリズム演技という手法においては)感情を演じる、ということない、と考えられています。
感情は出来事によって湧いてくる
例えば、あなたの目の前に「嬉しい」という感情を抱いている人がいたとしましょう。
この人は、どうして「嬉しい」という感情を抱いているのでしょうか?
そしてあなたは、その人が「嬉しい」という感情を抱いてることを何によって知ることができるのでしょうか?
まず、「嬉しい」という感情は、その人が独りでに生み出したものではありません。
何か出来事が起きて、それが、その人の人生の望みと合致したので、嬉しいという感情が「湧いて」きています。
何も良いことが起きていないのに、嬉しいという感情を「湧かす」ことはできません。
それに、例えばその人が夢にまで行ったポルトガル旅行の飛行機チケットが当たったのだとして、その瞬間は驚きで頭が真っ白になって「嬉しい」という感情に1、2秒浸っていることもあるでしょうが、次の瞬間には頭の中で「じゃあまずリスボンに行って、次にポルトに行って、あれをして、これを食べて…」と、旅行の計画に向けて思考がフル回転しているはずです。
「嬉しい」という感情は、その人がまとっている空気であったり、思考を促進するガソリンとして、そこにあり続けるというだけで、継続的に「その感情だけでいる」なんて人は、多分この世の中にいないのです。
感情は行動から見える
次に、なぜ目の前にいる人が「嬉しい」という感情を抱いているとわたしたちは知ることができるのか。
それは、その人がどんな表情を浮かべているかであったり、どんな声色で喋っているかであったり、どんな発言をするかであったりといった、目で見て分かる情報からキャッチしています。
つまり押しなべて言えば、その人が【どんな質感を持ってどんな行動をとるか】ということから知ることができるんですよね。
相手の心の内側を覗くことはできませんが、相手の行動やその質感を見て取ることはできるからです。
そしてこの2点は、演技においても共通しています。
つまり、物語の中で何らかの「出来事」が起きて初めて登場人物の感情は【湧いて】くるもので、いくらプロの俳優だとしても「感情」だけを先取りしてそれを【演じに行く】ことはできません。
登場人物にとって、意味のある事柄が起きて初めて、心は動きます。
そしてなんらかの感情が【湧いて】きたにしても、その感情に【浸り続ける】のではなく、次なる自分の進みたい方向へ、【思考】や【行動】をし始めないと、生きた人間には見えてこないのです。
演じられるのは「目的」と「行動」
序盤から大分マニアックな話をしてしまいましたが、
「演技は感情を演じるものではない(又は、感情を演じるのって不可能に近い)」ということはなんとな~く私の情熱を通してお分かり頂けたかと思います。笑
じゃあ、何を演じればいいのか?
というか、何を演じることが可能なのか?
それは、その人物の持っている「目的」と、それに向かうためのあらゆる行動です。
舞台だけでなく映画、ドラマなど、人間の身体を道具にして物語を伝える芸術では、ほぼ必ずと言っていいほど、登場人物それぞれに、隠された「目的」が設定されています。
そして、登場人物はそれに向かって「行動」を取っていくのですが、同時にそれが上手くいかないような「障害」も設定されています。
ここで、目的と障害のせめぎ合いが起こります。
登場人物は、物語中ずっとその目的を達成しようともがき続け、上手くいかない時間が延々続くわけですが、最後のシーンに至ってそれが達成されると、観客にとってはそれが大きなカタルシスとしてもたらされ、感動する、というわけです。
つまり、俳優にとってまずするべき作業は登場人物の「目的」を見つけることであり、演じるというのはその目的を達成するための「行動」を舞台上でとる、ということなのです。
ブレない「目的」を持っていれば無限のトライができる
登場人物の目的を見つけ、行動をとる、ということをやっていくと何が良いか。
それは、演技がブレなくなっていくということです。
それどころか、「よりシーンに効果的な行動は何か」と様々な行動をトライをしていくことが可能です。
1人の登場人物が持っている「目的」は1つだけですが、それさえしっかり捕まえておけば、それを達成するための行動の選択肢は無限にあり、そこにこそ俳優の個性があらわれます。
でも一方で、感情を演じようとするとトライはかなり難しくなります。
「もっと嬉しい気持ちで演じてみよう」って、なんだかふわっとしていて、どうしたらもっと嬉しい気持ちになるかなんて分からないですよね?
でも、いるんですよ。
「嬉しそうに見えない」とか言う演出家。(笑)
そう言われたとき、「もっと嬉しくなる」をトライすることはできませんが、
「紙をまき散らした後に、机の上に登ってジャンプしてガッツポーズしよう」という行動のトライは可能です。
ここまでやれば絶対嬉しそうに見えるはずなので、あとは引き算やら足し算やらして、ちょうど良い落としどころを見つけていけばいいだけです。
それこそが「稽古」、つまりクリエイションの場なのです。
「感情」は、相手との関係の中で湧いてきたら楽しめば良い
もちろん、感情を舞台上に持ち込むべきではない、という話ではないことは、ここまで読んでくださった皆さんなら理解してくれていると思います。
観客は、無慈悲なロボットが舞台上で淡々と行動をとっていたって共感はしません。
生きた登場人物が何かに向かって行動し続け、壁にぶちあたり、葛藤し、それでも頑張り続けるところに心を寄せます。
つまり、結果的には【感情】は舞台上に乗ることになるのです。
でもそれは、自分以外の俳優との関わりや、物語上の出来事によってはじめて「生じる」「湧く」もの。
その意味で、私達俳優が感情に対して演じに行こうとするのではなく、湧いてきたら、ああ、こういう感情になるのだなぁとどこかと面白がればいい。
でも、それはそれ。次のそのシーンをやるときにまたそれを演じに行こうとする必要はありません。
同じ目的に向かって同じ行動を取っていれば、全く同じ感情じゃないにしろ、自ずと同種の感情は湧いてくることになるでしょう。
それに、感情はいつもいつも一色とは限りません。
「嬉しい」の中に「怖い」があることもある。
「腹が立ってしょうがない」の中に「ちょっぴり気恥ずかしい」があることもある。
感情はたえずその形を、その色を変化させていて、それが人間です。
「嬉しい」だけを演じに行こうとするより、相手役との関係性、やり取りの中で言葉では言い表しようのない虹色の感情が湧いてきたとしたら、その方が興味深くワクワクする体験だと思いませんか?
レッスンの中でも、そして皆さんが目指す実際の現場でも、そういったお芝居の奇蹟のような瞬間に巡り合えたら、素敵ですよね。